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 家畜とペットとの間。食の豊かさと動物愛護との間。肉の消費拡大とベジタリアンとの間。
 私は、どこに線を引くべきなのだろう。

 と畜場に行った。と畜場に行くこと自体は3回目だけど、今まさに殺されようとする豚の、命の限りの悲痛な叫びを間近で聞いたのは、今回が初めてだった。
 部屋中に次から次から響き続けるあの鳴き声が、なんだか耳から離れない。
 やめてやめて、と力の限り訴えても、追い込まれ、気絶させられ、首にナイフを入れられ、放血させられ、流れるように、生き物は食べ物になっていく。
 
 牧場に行くと、牛ってほんとに可愛い。
 くりっくりの目をして、おびえながらも、こっちを見て、近づいてくる。
 そんな牛たちもあっという間に殺されて、動物の死体は肉になる。

 スーパーのパック詰めのお肉は、命を持ち生きていた動物だという当たり前の事実が、目の前に突きつけられる。

 でもやっぱり、お肉はおいしい。
 お肉をいっぱい食べるようになって、等級の違い、銘柄の違い、内臓や部位、オレイン酸とか、脂の香りとか、いろんなものがわかるようになると、肉を食べるのが楽しくなってくる。
 内澤旬子は『飼い食い』の中で、「肉のもたらす「豊かさ」を大事にして生きたい」と書いた。
 動物を屠り、食べることは、食文化であり、私たちの生活を間違いなく豊かにしてくれている。
 他者の命を自分の命に取り込み生きることは、動物の摂理でもある。
 肉を食べることを支える産業で、日々を営む人々もたくさんいる。
 私はその産業に関わる一人でもある。

 動物を殺すことに対する罪を、どうとらえるべきか。家畜を肉にするために殺すことは、法律上罪ではない。倫理的に罪なのかどうかは、迷う。
 と畜場で働く人たちを「動物殺し」とののしる気は全くない。肉を食べる人間に、そんなことを言う資格があるわけがない。
 でもあの豚の叫び声を聞いたとき、「罪」の意識がどんと胸の中に落ちてきた。 

 自分が肉を食べること、自分の仕事が、動物の命の犠牲の上にあるということに、常に自覚的であらねばならないと思ってきた。
 だからせめて、食べる肉は必要最小限に、残さないように、感謝をして、いただく。畜魂に祈る。そこに線を引きたいと思ってきた。
 内澤旬子は、「いただきます」が免罪符に思えるその違和感に立ち尽くしたと書く。
 私の中で私の線を引いたとしても、決してすっきりと割り切れるものにはならないのだと思う。その矛盾を抱え続けなきゃいけないのだと思う。

 今生きる生産者事業者のためには、価格下落に苦しまないように、短期的に肉の風評被害対策なり消費拡大は必要だ。
 でも、人口爆発や環境破壊を考えれば、大量の石油をかけ10kgの穀物を1kgの肉にして食べることを奨励できるのか。
 
 安い輸入品と戦うために、際限ないコスト競争は畜産の世界でも求められ、大規模化は進み、市場を通じた大量生産大量流通の論理で動いている。
 そんな中で、過密飼育が起こり、増体のために輸入穀物に頼り、薬を打たれ、あか牛など地域特有の牛が生き残りづらくなっていき、等級が高くなる黒毛、しかも霜降りばかりに偏っていく。
 いろんなものがちょっとずつ歪んでいる。
 TPPとかでこれ以上米国産牛肉が安くなったら、日本の畜産は一体どうなっちゃうのだろう。

 罪の意識を抱えながらも、それでも必要な産業として、畜産をとらえるならば、それはせめていろんなものを歪めない形で成り立つべきだ。
 公正な畜産って、なんだろう。
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平和な日常

 「あの」震災から、1年がたった。

 「この」震災でしかない人たちがいる中で、私にとっては、「あの」震災となっている。

 津波に家を流されたわけでもなく、家族を失ったわけでもなく、仕事を失ったわけでもなく、原発のせいで故郷を追われたわけでもなく、ただ東京23区内で仕事に追われて寝不足をしていただけの私は、この3・11に何を思うのか。何を書けるのか。
 
 新聞が「3月11日2時46分は、日本中が鎮魂の祈りに包まれる」と書く中、私はその時間を、その新聞を読みながら、モスバーガーでモスバーガーを食べながら迎えた。私は、鎮魂の祈りではなくモスバーガーのにおいと他愛無いおしゃべりのざわつきに包まれていた。被災者ではない人の多くにとって、3・11の2時46分の意味はそんなものだと思う。

 2万人近くが命を一瞬にして失っても、34万人以上の人が避難生活を余儀なくされても、1年間で3万人自殺者がいても、20万人がスーダンで殺されても、誰かの命日は、私にとって日常におけるひとつの点だ。3・11の2時46分も、8月6日の8時15分も、6月23日も、8月15日も、9月11日も、日常の一部だ。

 3・11によって、私個人は何か変わったのか。何を学べるのか。
 この日を、私は、どう記憶し、何を学ぶべきなのだろう。
  
 地震と津波と原発の恐怖か、国策としての原発推進の罪深さか、電気を使い豊かさを享受することの罪深さか、復興の遅さか、家族の大切さか・・・。

 私個人が今思うのは、平和な日常を生きていることの大切さだ。
 ありふれた陳腐な言葉でしかないけれど、特別なことではなく、ただ日常を生きることが、最も私にとって真実に思える。
 1年前、ありふれた日常を、奪われた人が何万人といる。
 そしてこの1年間、奪われた日常を思い、涙している人がいる。
 それでも人は日常を生き続ける。
 今日を生きるために、ご飯を食べ、がれきを片付け、話し、笑う。そういう人の日常を生きる強さこそが、地道な復興の原動力だと思う。

 「情熱大陸」の中で、石巻お菓子屋さんが言った。「『復興』や『がんばろう』に疲れた。日常を生きる、それでいいだろう」と。
 それでいいと思った。日常を生きる力で十分だと思った。前を向き、日常を生きる力が、泥を出し、がれきを片付け、店の再開を進める。復興計画や復興予算は、そういう人たちの力の強い追い風だ。先導者ではない。

 日常を奪われた人の冥福を祈り、遺された人の日常を祈り、私自身は、そんな人々の日常というものを少しでも支えられる人間になろうと思い、今与えられている平和な日常を、しっかり生きようと思う。
 私が今できることは、そんなことだと思う。
  

 

矛盾

 固定電話が鳴る。
 私はそれをとる。1日に何十回も。この三週間ずっと。

 「子どもの命をないがしろにするつもりか」という消費者。
 「うちの会社をつぶす気か。こんなんじゃ生きていけないぞ」という肉屋。
 「収去も買い上げの対象になるんですか?」と保健所。
 あとはマスコミ。

 どれも、心にどしっとくる。
 それだけ、国のやってることは大きいということ。

 高校時代、広河隆一さんとか、森住卓さんとか、鎌中ひとみさんとか、そういう人の本とかをずっと読んでて、内部被曝のおそろしさとか、見えないもの、科学で因果関係を証明できない健康被害に対して国が無責任であったことについて、怒りを覚えていた。
 劣化ウラン弾のせいか、イラクで生まれた奇形の赤ちゃんと、泣き崩れるお母さんの写真のあの光景を、忘れてしまったわけではない。
 あんなお母さんが、福島にいてはいけないって、絶対にあっちゃいけないって思ってる。
 
 この国のご飯が、汚染されてしまうなんて、あっちゃいけないんだ。

 でも、数%の確率で起こりえるかもしれない将来のがんの可能性を防ぐために、数%の規制値超えの牛肉を市場から隔離するために、全国の牛肉の全頭検査なんてできるのか。その数%のために、何億円をかけられるのか。

 ソマリアの飢餓のニュースを横目に見ながら、誰かのお腹を満たすはずの牛肉が灰に変わっていく。

 「原発さえなければと思います」

 お願いだから、こんなことで死なないで。

 日本人が、安心して日本のお肉を食べられるように。食べて病気になんかならないように。
 畜産農家の人が、安心して牛を育てて、流通業者の人が安心してそれを売れるように。

 ただそれだけのことが、ものすごく難しい。
 ただそれだけなのに。

 
 土日もなく、何度か徹夜を過ごした私は、情けないかな胃腸炎になり、おうちでぐったり。

 論理とか理屈とかロジックとか、そんなんで塗り固められた左脳社会に疲れ果て、宮崎駿と養老孟司の対談集「虫眼とアニ眼」で、二人のおじいちゃんに癒やされてます。この本、いい。というか、こういう世界観を作れる一人になりたいと、心の底から思う。

 まだ言葉を生み出せるだけ、私の感性はつぶされてはいない。

 明日からまた戦争が始まる。
 つぶされてなるものか。

 
 
 みなさん、早く帰って、早く寝ましょう。

 といって、早く寝てない私ですが。

 大地震が起こり、津波が襲い、原発は放射性物質を撒き散らし、町中が節電モード。

 計画停電の実施にはまきこまれていないけれど、節電の中で、今までわりと節電に気を使っていた私も、不便を感じるようになった。オフィスが暗い、便器が冷たい、こたつも暖房も控えて寒い。町中の節電モードの中で、自分が使う電気のありがたみをしみじみと実感した。電気って、ありがたい。電気があるから便利で快適さを得てきたんだ。

 そしてその一方で、原発の恐ろしさを知る。東京の便利さや快適さを支えるために、放射性物質をかぶった土地があり、日本はまたしても被曝を経験した。二重、三重のセーフティネットは簡単に壊れた。世界に誇る安全な日本の原発技術のもろさを世界に露呈した。もういいよ。原発はいらない。

 じゃあ、どうすりゃいいんだ。

 電気は欲しい。原発はいらない。地球は温暖化だ。

 茨城県の知り合いの有機農家は言った。自分のとこの野菜が出荷停止になる中で、
「今まで心では原発反対と思ってきたけど、何の行動にも移さず、電気を享受してきた。今、その当然の報いをえてるのだと思う」と。

 いやいやそんなこと言っても、やっぱり電気は欲しい、そして原発はもういやだ。

 夏にやってくる電気需要のピーク。
 これを東京は乗り越えられるのか。

 自然エネルギーとか、省エネ技術とか、新たなアイディアが今すごく求められていると思う。
 
 抜本的な構造転換のアイディアはないけれど、私は今すごく言いたい。

 早く帰って、早く寝よう。

 日本人は働きすぎだ。私も先週は3日間連続3時間睡眠で、週末もない。
 まあそれはいいとして、みんな働きすぎだ。職場で電気使いすぎだ。GDPのために、人生をすり減らしている気がする。
 今こそライフワークバランスの時代じゃないのか。
 欧米のように、定時でさっとシャッターを閉め、家族との時間を大事にゆっくりおうちですごせばいいんじゃないだろうか。
 今こそ、過労な日本を休めて、電力需要を抑えるべきじゃないだろうか。
 プライベート、ライフ、家族や友達との時間に心を使い、ゆったりと電気を使えばいいのじゃないか。
 24時間社会をやめたらいいのではないだろうか。

 この今の日本の危機を乗り越えるには、いろんなアイディアがあっていい。

 この日本の危機に、がんばれ、がんばれ、復興だ!という思いもすごく大事で、被災地を精一杯限界まで力を出して支えなきゃいけないのだけど、それと同時に、休め、休め、とも思う。
 早く帰って、早く寝よう。

 おやすみなさい。


 

 

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