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平和な日常

 「あの」震災から、1年がたった。

 「この」震災でしかない人たちがいる中で、私にとっては、「あの」震災となっている。

 津波に家を流されたわけでもなく、家族を失ったわけでもなく、仕事を失ったわけでもなく、原発のせいで故郷を追われたわけでもなく、ただ東京23区内で仕事に追われて寝不足をしていただけの私は、この3・11に何を思うのか。何を書けるのか。
 
 新聞が「3月11日2時46分は、日本中が鎮魂の祈りに包まれる」と書く中、私はその時間を、その新聞を読みながら、モスバーガーでモスバーガーを食べながら迎えた。私は、鎮魂の祈りではなくモスバーガーのにおいと他愛無いおしゃべりのざわつきに包まれていた。被災者ではない人の多くにとって、3・11の2時46分の意味はそんなものだと思う。

 2万人近くが命を一瞬にして失っても、34万人以上の人が避難生活を余儀なくされても、1年間で3万人自殺者がいても、20万人がスーダンで殺されても、誰かの命日は、私にとって日常におけるひとつの点だ。3・11の2時46分も、8月6日の8時15分も、6月23日も、8月15日も、9月11日も、日常の一部だ。

 3・11によって、私個人は何か変わったのか。何を学べるのか。
 この日を、私は、どう記憶し、何を学ぶべきなのだろう。
  
 地震と津波と原発の恐怖か、国策としての原発推進の罪深さか、電気を使い豊かさを享受することの罪深さか、復興の遅さか、家族の大切さか・・・。

 私個人が今思うのは、平和な日常を生きていることの大切さだ。
 ありふれた陳腐な言葉でしかないけれど、特別なことではなく、ただ日常を生きることが、最も私にとって真実に思える。
 1年前、ありふれた日常を、奪われた人が何万人といる。
 そしてこの1年間、奪われた日常を思い、涙している人がいる。
 それでも人は日常を生き続ける。
 今日を生きるために、ご飯を食べ、がれきを片付け、話し、笑う。そういう人の日常を生きる強さこそが、地道な復興の原動力だと思う。

 「情熱大陸」の中で、石巻お菓子屋さんが言った。「『復興』や『がんばろう』に疲れた。日常を生きる、それでいいだろう」と。
 それでいいと思った。日常を生きる力で十分だと思った。前を向き、日常を生きる力が、泥を出し、がれきを片付け、店の再開を進める。復興計画や復興予算は、そういう人たちの力の強い追い風だ。先導者ではない。

 日常を奪われた人の冥福を祈り、遺された人の日常を祈り、私自身は、そんな人々の日常というものを少しでも支えられる人間になろうと思い、今与えられている平和な日常を、しっかり生きようと思う。
 私が今できることは、そんなことだと思う。
  

 

矛盾

 固定電話が鳴る。
 私はそれをとる。1日に何十回も。この三週間ずっと。

 「子どもの命をないがしろにするつもりか」という消費者。
 「うちの会社をつぶす気か。こんなんじゃ生きていけないぞ」という肉屋。
 「収去も買い上げの対象になるんですか?」と保健所。
 あとはマスコミ。

 どれも、心にどしっとくる。
 それだけ、国のやってることは大きいということ。

 高校時代、広河隆一さんとか、森住卓さんとか、鎌中ひとみさんとか、そういう人の本とかをずっと読んでて、内部被曝のおそろしさとか、見えないもの、科学で因果関係を証明できない健康被害に対して国が無責任であったことについて、怒りを覚えていた。
 劣化ウラン弾のせいか、イラクで生まれた奇形の赤ちゃんと、泣き崩れるお母さんの写真のあの光景を、忘れてしまったわけではない。
 あんなお母さんが、福島にいてはいけないって、絶対にあっちゃいけないって思ってる。
 
 この国のご飯が、汚染されてしまうなんて、あっちゃいけないんだ。

 でも、数%の確率で起こりえるかもしれない将来のがんの可能性を防ぐために、数%の規制値超えの牛肉を市場から隔離するために、全国の牛肉の全頭検査なんてできるのか。その数%のために、何億円をかけられるのか。

 ソマリアの飢餓のニュースを横目に見ながら、誰かのお腹を満たすはずの牛肉が灰に変わっていく。

 「原発さえなければと思います」

 お願いだから、こんなことで死なないで。

 日本人が、安心して日本のお肉を食べられるように。食べて病気になんかならないように。
 畜産農家の人が、安心して牛を育てて、流通業者の人が安心してそれを売れるように。

 ただそれだけのことが、ものすごく難しい。
 ただそれだけなのに。

 
 土日もなく、何度か徹夜を過ごした私は、情けないかな胃腸炎になり、おうちでぐったり。

 論理とか理屈とかロジックとか、そんなんで塗り固められた左脳社会に疲れ果て、宮崎駿と養老孟司の対談集「虫眼とアニ眼」で、二人のおじいちゃんに癒やされてます。この本、いい。というか、こういう世界観を作れる一人になりたいと、心の底から思う。

 まだ言葉を生み出せるだけ、私の感性はつぶされてはいない。

 明日からまた戦争が始まる。
 つぶされてなるものか。

 
 
 みなさん、早く帰って、早く寝ましょう。

 といって、早く寝てない私ですが。

 大地震が起こり、津波が襲い、原発は放射性物質を撒き散らし、町中が節電モード。

 計画停電の実施にはまきこまれていないけれど、節電の中で、今までわりと節電に気を使っていた私も、不便を感じるようになった。オフィスが暗い、便器が冷たい、こたつも暖房も控えて寒い。町中の節電モードの中で、自分が使う電気のありがたみをしみじみと実感した。電気って、ありがたい。電気があるから便利で快適さを得てきたんだ。

 そしてその一方で、原発の恐ろしさを知る。東京の便利さや快適さを支えるために、放射性物質をかぶった土地があり、日本はまたしても被曝を経験した。二重、三重のセーフティネットは簡単に壊れた。世界に誇る安全な日本の原発技術のもろさを世界に露呈した。もういいよ。原発はいらない。

 じゃあ、どうすりゃいいんだ。

 電気は欲しい。原発はいらない。地球は温暖化だ。

 茨城県の知り合いの有機農家は言った。自分のとこの野菜が出荷停止になる中で、
「今まで心では原発反対と思ってきたけど、何の行動にも移さず、電気を享受してきた。今、その当然の報いをえてるのだと思う」と。

 いやいやそんなこと言っても、やっぱり電気は欲しい、そして原発はもういやだ。

 夏にやってくる電気需要のピーク。
 これを東京は乗り越えられるのか。

 自然エネルギーとか、省エネ技術とか、新たなアイディアが今すごく求められていると思う。
 
 抜本的な構造転換のアイディアはないけれど、私は今すごく言いたい。

 早く帰って、早く寝よう。

 日本人は働きすぎだ。私も先週は3日間連続3時間睡眠で、週末もない。
 まあそれはいいとして、みんな働きすぎだ。職場で電気使いすぎだ。GDPのために、人生をすり減らしている気がする。
 今こそライフワークバランスの時代じゃないのか。
 欧米のように、定時でさっとシャッターを閉め、家族との時間を大事にゆっくりおうちですごせばいいんじゃないだろうか。
 今こそ、過労な日本を休めて、電力需要を抑えるべきじゃないだろうか。
 プライベート、ライフ、家族や友達との時間に心を使い、ゆったりと電気を使えばいいのじゃないか。
 24時間社会をやめたらいいのではないだろうか。

 この今の日本の危機を乗り越えるには、いろんなアイディアがあっていい。

 この日本の危機に、がんばれ、がんばれ、復興だ!という思いもすごく大事で、被災地を精一杯限界まで力を出して支えなきゃいけないのだけど、それと同時に、休め、休め、とも思う。
 早く帰って、早く寝よう。

 おやすみなさい。


 

 
 今日は「農力検定」創設キックオフ集会なるものに参加してみた。

 まだこの検定、理念も中身もまだまだ曖昧だけど、そこに集まる人たちの問題意識は共有されていた。
 地域を活性化したい。農村を元気にしたい。
 都市の消費者と農業の生産者の距離を短くしたい。
 今後の食糧危機に備え、しっかりと自給力をつけたい。

 そんな思いを達するために、都市生活者と農を結ぶ手段としての農力検定。
 そして、そういうことをしてるNPOや社会起業家たちが集まった熱い集会だった。

 前回書いた霜降り牛肉の件もしかり、今まで私が何度か書いている食品添加物や有機農業の話、フェアトレードもそうなのだが、消費者と生産者との距離があまりにも遠いことに問題の所在があるように思う。

 あらゆるものがmade in worldで、消費者は市場における価格でしか、商品を選べないようになってきている。
 どんなに生産者がいのちや環境に配慮したり、大切に心をこめて作ったとしても、消費者には伝わらない。
 市場で評価されなければ、売れない。生きていけない。

 生産現場には、農薬とか添加物などの化学物質や、移民労働者の低賃金や重労働、動物の病気、環境汚染などなど、あらゆる問題がある。でも「それ、問題よ!」と責めたてたところで、返ってくる答えは、「だって消費者が安いものを選ぶんだから仕方ない」だ。
 西友が以前「安さは愛だ」とキャッチコピーを打ってたけど、消費者にとっての愛は、生産者にとっては鞭だ。

 商社の友達に言われた。
 「だってコンビニ弁当が1個1500円とかだったら買わないでしょ?」

 うん、買わない。

 私も消費者だし、お金は大事だ。

 でも少しでも、できる範囲でもいいから、都市と農村をつなげたい。消費者と生産者をつなぎたい。
 その意味で、地産地消や有機農業運動の思想がすごく好きである。

 自分の体は、自分が食べたものでできている。
 What you are is what you eat.
 
 自分が食べているものが、どうやって作られたのか、農の現場を、もっと多くの人に、もっと気軽に知ってほしいと思っている。私も、もっと農の現場に行きたい。

 生産現場を知ってしまうと、スーパーで毎回踏み絵を踏まされた気持ちになって思い悩むけど、消費者に問題解決を投げるのも無責任だけど、でも、それでも、自分が食べたものが一体誰がどこで作っているかわからない現代、自分が間接的に殺し食べている命を、知ってほしい、消費者と生産者をつなぎたいと思う。

 

霜降りの背景

 霜降り牛肉と、赤身の牛肉、あなたはどちらが好きですか。

 そんなに食べたことがあるわけではないが、私は霜降りの方が、柔らかくておいしいのだよな、と思う。

 しかし霜降りを選択するということを考え直さなければならないと思った。

 
 GWに、鳥取県の牧場を見せてもらってきた。
 そこは、すごく哲学を持って頑張っている牛の牧場だ。

 霜降り牛肉というのは、筋肉の中に脂肪が入り込んだ異常な状態だという。
 普通に生きていたら、筋肉の中に脂肪が入り込むことなどない。
 霜降りを作るためには、必要以上に濃厚飼料(牧草ではなくトウモロコシとか)を食べさせ、牛の運動量を制限しなければならない。

 そうやって育った牛は、よく内臓疾患になる。
 つまり、霜降りの牛って、健康な牛ではない。病気の牛であることが多い。

 しかも、世界的に人口が増え、新興国の経済発展による肉消費拡大で、どんどん食糧の需給が逼迫する食糧危機が迫っている時代に、4000万人の人が1年間に餓死するこの時代に、牛を病気にしてまで穀物を食べさせ、ただでさえ少ない穀物をそんな風に消費してしまっていいのだろうか。

 どうせ生後21ヶ月で殺してしまう牛の健康に配慮するのは偽善だろうか。

 肉用牛は普通生後21ヶ月で殺され、肉として食われる。
 それは、畜産農家が出荷して採算がとれるラインが21ヶ月だから。
 肉用牛の命は、たった21ヶ月だ。鶏はたった50日。

 人間が肉にするために計算し、人工授精して生まれた牛。たった21ヶ月のために生まれてきた牛。
 その21ヶ月、幸せであってほしいと思うのは、やっぱり偽善かもしれないと自分でも思う。

 ただ、牧場のおじさんがなぜ霜降りではなく赤身にこだわる、つまり牛の健康にこだわるのか。
 それは、「目先の効率を追えば、長期的にやっていけなくなる」ことを知ったからだという。一時期は目先の効率を求め、畜産をやってきたが、その後でBSEが起こり、目先の効率が実は多くの問題を引き起こし、逆に非効率だということを身をもって知ったからだという。

 鳥インフルエンザや豚インフルエンザも、効率化した密飼いがウイルスの突然変異を容易にする。
 しっぺ返しをくらうのは人間だ。

 牧場のおじさんは、何度も言った。
 「消費者が変わってほしいんだ」と。
 消費者が霜降りを求めるから、畜産農家もそれを作らざるを得ない。作りたくないけど。

 TVのグルメ番組で「きゃー、霜降りとろけるぅ。最高☆」とか言っているのを見ると、「ああ食べたい」とか思ってしまう。でも、霜降りの背景を知ってしまった以上、「おいしい」だけを追い求める消費者であってはいけないように思うのだ。
 赤身の方が、ずっとおいしい。そう家庭でも教えられるお母さんになりたい。

 「霜降りがいい」という価値観を変えたい。
 
 

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