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NANA21

 こんなことをしている場合ではないのに、書かずにはいられない。

 NANA 第21巻。

 大好きな大好きなこの漫画。
 

 こんなことをしている場合ではないのに、1日にもう3度も読んで、嗚咽している。
 
 最初あまりの衝撃で、全身震えが止まらなかった。

 
 愛する人が逝ってしまうことの悲劇。
 愛する人が突然事故で即死した衝撃。嘆き悲しむ仲間たち。
 ただただ、抱き合って。涙を流し、まぶたをはらし。
 ありふれたテーマでありながら、これはまた新たな社会のあり方なのかとも思う。

 レンという存在は、あまりにも大きすぎて、あまりにもかっこよすぎた。それだけ大きな存在が、あるとき突然消えてしまう衝撃。あまりにも大きい衝撃。


 21巻は、レンが死んだ後、遺された人が、どうやって悲しんだのか、ただそれだけを、細かく繊細に描いている。

 美雨は言った。
 「(リストカットを)あたしはもうしない。ヤスが悲しむから。この先自分にどんな悲しいことがあっても・・・ ヤスが悲しむようなことだけは絶対したくないって思った・・・」

 生きる実感がわかなくて、自分の存在が小さくて、寂しくて、自傷行為を行う人やほんとに死んじゃう人がたくさんいる中で、この美雨の言葉はどれだけの人に実感を持って伝わるのだろう。

 この漫画は、「生きろ」というメッセージを伝えきれるだろうか?

 愛する人が失われる衝撃を受けて、素直に「死んじゃいけないんだ」と思える人はどれだけいるのだろう。

 レンというかっこよすぎるどでかい存在ならば、多くの人の中にその存在を遺し、嘆き悲しんでもらえる。けれど、私はレンにはなれない。そして、今日も、一人団地の一室で、誰にも看取られず、その命を終えて、誰にも泣いてもらえない人が、何十万といる。
 架空の人物レンに嗚咽できても、今日孤独に死んだ誰かのために私は泣くことはできない。
 結局は、自分の存在なんてものは、肉体・実態としてではなく、誰かの心の中にしか在り得ないのではないか。他者との関わりの中でしか、存在は存在しえないのではないだろうか。存在が小さいのは、他者とのつながりが希薄だからで、存在が大きいのは他者と強いつながりがあるから。
 自己と他者とのつながりが希薄なこの世界、生きる実感が希薄で、存在が小さいこの世界を、どう生きていけばいいのだろう。

 家族も地域も企業も、近代・現代を経て共同体が崩壊してきた中で、強い個人として自立して生きることが求められる時代で、レンは強い個人になりえて、魅力的で、家族なんかいなくても、仲間たちに愛され、自分のコミュニティを築くことができた。だからこそきっと、そうやって自分の魅力で素敵な仲間と濃い関係を築き、自分の力で成功するレン・トラネスが現代日本の若者に羨望されるのだろう。
 葬式は、家族も親族もなく、友達のみ。そんな時代は来るのだろうか。

 この前飯島愛が死んだときも衝撃だった。
 彼女が死んだとき、多くの芸能人が、愛ちゃん大好きだった、と言った。すごく愛されていた。彼女は強い個人になりえた。けれど、そんな彼女ですら、病院に行けばすぐ治る肺炎なんかで、孤独に死んで、死後1週間発見されなかった。なんでそんな死に方をしなければならなかったんだろう。

 NANAは連載を始めた当初よりもなお、時代に適合している。支持を増やす。
 NANAと共鳴する、この心がむなしい。


 

 
 

 


 
 
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