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 高畠を愛していながら、いいとこなの、と言いながら、じゃあなんで私は明日から高畠に移住しないんだ。私は農作業で疲れた体をお風呂に浮かべ、ぼけーっと考えていた。

 それでもなお、なぜ私は都市生活者として生きることを選んでいくのか。

 私の周りのいろんな人の顔を思い浮かべる。両親や親戚や、友達の顔を思い浮かべる。そして思う。私はこの人たちにしっかりと評価して認めてもらいたいのだと。都市のキャリアと自己実現の世界の中で、周りの人にほめてもらいたいだけなんじゃないかと。そんな浅薄な人間でしかないんじゃないかと。誰かを救い、誰かの役に立ち、社会貢献することで、自分の存在意義を確かめなければ不安なのだと。
 
 「飯食って、くそして、生きる。人間が生きるとはそういうことだ。動物と何も変わらない」
 秋津さんはそう言う。
 「まず生きる。それから自分の存在意義とかを考えたらいい」

 秋津さんを見ていて思う。彼女は、確かに、間違いなく、生きている。
 自分でご飯を育て、ご飯を食べ、生活に使うものを作り、生きている。生きるために、生きている。

 「まず生きる」
 そのことを、都市では簡単に忘れてしまう。生きていけばいいのだということを。

 農作業をしていると、ものすごく多くの命の営みを感じる。命の力を感じる。
 猿も熊も、カモシカもスズメもカラスも、雑草も虫も、細菌もウイルスも、みんな息づいていて、生きることに必死で、稲やキャベツたちを襲ってくる。人間はそれらから農作物を守る。生存競争の戦いだ。いろんなものが、生きている。人間もその中のひとつにすぎない。農なんて、人が食べて、生きる、ただそれだけの営みにすぎない。
 雑草を抜きながら、スズメよけのかかしを作りながら、ただ生きている多くの命を思った。

 誰に認めてもらうわけでもなく、誰にほめてもらうでもなく、そんなこと関係なく、ただ生きている。
 森の中で一輪ひっそりと咲いているきれいなユリは、ほめてもらいたいわけじゃない、生きるために咲いているだけなんだ。
 
 ただ生きる、生活することに、自己表現や自己実現を見出せないのだと言う私に、淳さんは、しばらくしてから答えた。
 「田んぼだとか、畑だとか、この景色そのものが、ここを守ってきた人たちの自己表現なんだな」と。
 
 毎日草をとったり、土を耕したり、地味な作業を黙々とやって、農を支えてきた数え切れない人の数え切れない積み重ねが、この景色を、この日本をつくってきたんだ。淳さんの言葉を思い出しながら見る、車窓の一面に広がる田んぼに、胸がいっぱいになった。

 生きることそのものが、美しいと思えた。

 「同じ思いだよ、どこにいても。人にはそれぞれ役割があるんだから、自分でできることをやったらいい。いつでも戻ってこれるんだから」
 秋津さんは最後に私に言ってくれた。
 「ありがとうございます」の言葉は、涙でちゃんと言えなかった。

 自分がどんな役割を担い、どんな人間として生きていけるか、どんな存在意義を持っていけるのか、まだまだ未知数で不安ばかりだけど、でも、しっかりとまず生きていきたい。その思いだけは、忘れずに、胸に刻み続けたいと思う。
 
 
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 高畠に行ってきた。

 山形県の小さな町。有機農業を誇りに頑張っている人たちがいる町。

 今回私は確信した。私の理想とする農業はここにあると。

 高畠には、美しく強い人たちが生きている。
 
 秋津さんは言った。
 「私は農業をしているとは思っていない。ただ生きているだけだ。」と。

 自分たちで米と野菜を育て、自分たちで調理し、保存し、農機具も直し、家具も家電も直し、家具や身の回りのものも自分たちで作る。電気・ガス・水道が止まっても、薪で火をたけるし、小川から水をひいてこれる。石油が止まっても、昔の手動の農機具で農作業は続けていけるし、有機農業だから農薬・化学肥料がなくなっても何も困ることはない。
 本当の意味で「自立」している人たちなのだと思った。
 
 なんて強く、美しい人たちだろう。
 震災で露呈したように、都市生活者は電気・ガス・水道、食料の流通、交通インフラ、止まればとたんに都市機能は麻痺し、生活していけなくなる。
 なんて脆弱なことだろう。自分が情けなくなり、こわくもなった。
 それが社会組織を発達させ、種々の労働から解放してくれたけれど、それに代わり、あらゆるものに依存し、「自立」を失い、自分の力で生きていくことができなくなってしまう危うさと隣り合わせだ。

 お金さえあれば、ご飯は買える、水も飲める、暮らしていける。でもそれで忘れているのだ。お金では暮らしていけないことを。

 しっかりと自分の力で生きている姿、そしてそれを誇りに生きている姿に、心打たれた。

 秋津さんのもとには、途上国からの学生が学びにやってくる。
 日本には近代農業も発展しているにも関わらず、あえて、非近代の有機農業を学びにやってくるのだ。
 機械や農薬や遺伝子組み換え作物や種子を、外国の企業に依存し、大規模単作化し、国際市場の動向に左右される近代農業、農作物輸入自由化、自由貿易が、途上国の農業を脆弱にさせ、その地の共同体を破壊し、「自立」を失わせ、貧困と飢餓を助長してきた。
 近代農業を途上国に教えて、それを「自立支援」だというのは、大きな矛盾だ。
 本当の意味で、途上国が貧困や飢餓から抜け出せるのは、秋津さんたちが高畠で実践しているような「自立」した農のあり方ではないのか。

 日本が農産物の輸入を拡大しても、私たちは生きていける、と秋津さんはしっかりと自信を持っていった。輸入作物が流入したら、真っ先につぶれるのは日本の大規模農家だと。
 大規模農家は機械などの支出が大きく、収入が減ったらやっていけないが、私たちはそういう支出がない、借金もない、信頼関係を作ってきた消費者に買い続けてもらうだけ、買ってもらえなかったとしても、私たちはちゃんと食べて生きていけると。

 輸入拡大への対策として、大規模化を急ぐ日本の農政だけれど、その方向で、本当にいいのだろうか。戸別所得補償が、確かに農家の暮らしを支えることになったとしても、それは単なる対症療法でしかない。本当の意味で、これから日本が目指すべき農業は、高畠にあるのではないか。
 農家が厳しいから国がお金を出す、のは必要だけれど、農家が厳しくならないあり方を描かなければ、日本は食べてはいけない。生きてはいけない。
 
 私にとって、日本が目指すべき理想の農は、高畠にある。
 
 
 

 
 

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