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 社会問題に向き合って、なんとかしたいなと考えると、

1.まず第一段階として、企業とか、政府とか、誰かを責めてみる。
 
 たとえば環境問題だったら、いっぱいCO2排出してる企業悪いやつだ。
 たとえば戦争だったら、戦争する軍隊とか国家とかは悪いやつだ。
 あるいは○○って人間は悪いやつだ。
 
 と思う。

2.でも第2段階として、企業や国家にその悪さをさせている構造を知る。

 環境にいいことよりも安いものを選んで買う消費者としての「我々」が悪いのだ。
 戦争を支持した、反対しなかった国民としての「我々」が悪いのだ。

 という風に。

3.私は、次の第3段階はなんだろうと悩む。

 我々にそんな選択をさせる構造が悪いんだろ。と。
 我々がそんな選択をしたからといって、人権侵害・環境破壊するやつがやっぱり悪いよ。と。
 なぜなら、「我々は悪くない」、といいたいから。


 社会科学をやってると、結局「我々が悪い」ということばかりを追求される。
 自分の中の加害者性をいやでもつきつけられる。

 有機農業が広がらないのは、それを消費者が選ばないから。
 環境にいい製品が広がらないのは、それを消費者が選ばないから。
 フェアトレード製品が広がらないのは、それを消費者が選ばないから。
 動物に配慮した製品が広がらないのは、それを消費者が選ばないから。
 紛争ダイアモンドじゃない認証が広がらないのは、それを消費者が選ばないから。
 
 購買は投票行動です、賢い消費者になりましょう、と言われて、私ははい、わかりましたと、そういう商品を求めてはみる。けれど、すべてのものにいちいち思いをはせるのは、疲れてしまう。買い物するたびに神経をすり減らしてる。安い卵とか、安い服とかを選んでしまったときは、踏み絵でも踏まされてる気になる。
 スーパーの前で涙ぐむのをぐっと抑えてみる。
 私が買い物を楽しむのを邪魔する資格が、社会科学にあるというのか。

 社会科学の我々糾弾はまだまだ続く。

 原発がなくならないのは、我々が豊かな生活をしたいから。
 ODAが増えないのは、我々が豊かな生活をしたいから。
 無駄なダム開発とかがなくならないのは、我々が豊かな生活をしたいから。
 沖縄から基地がなくならないのは、我々が安全保障を享受したいから。
 マイノリティが排除されるのは、我々(マジョリティ)が優越感を保ちたいから。

 自分の畑で作ったもの自分で食べてる時代じゃなくて、身の回りのあらゆるものが、MADE IN WORLDになる時代、不可視になって、その責任ばかりを押し付けられている。
 もうそろそろ、知りましょう、知らないのは罪だ、我々が悪い、というおとしどころは飽き飽きだ。
 B’zの「ケムリノセカイ」は大好きだけど、「まわりまわって誰のせい?」「この社会=僕たち」って、私をいじめる歌に聞こえてきた。

 贖罪意識でフェアトレードを考えてきたけれど、自分の中の加害者性と向き合わなきゃと思って勉強してきたけれど、そろそろここから脱却したい。
 「できることから」と、TAKE ACTIONをし続ければ、このしんどさから脱却できるのだろうか。
 私は悪くないって堂々と胸をはれる日がくるのだろうか。

 第三段階に、たどりつきたい。

 私は悪くない!!!

 

 

 
 
 

 

 
 

 
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 最近の私の一番の問題関心は、化学物質。

 有機農業を卒論にいろいろ調べ、農家の人とかから話を聞いてて感じる「こわさ」。
 このこわさを、科学的な論文にできなくて、感覚でしか語れないことが悔しい。

 先日、油のエコナに発がん性物質があることがわかって、トクホがなくなった。
 やっぱりあやしかったのね、と思った。

 化学物質のこわさを知ると、日常をとりまくいろんなものがこわくなる。

 現代は、こわいほど、人工的に合成された化学物質があふれている。
 水道水も、農薬も、食品添加物も、洗剤も、洋服も。
 テレビのコマーシャルなんてどれも化学物質の宣伝に見えてしまう。
 裏はとれてないけど、全世界のうち2%の農地を持つ日本で、60%の農薬を使っているのだと、農家の人に聞いた。
 「国の基準では安全でしょ?」とは言っても、一つの化学物質の安全性なんて、その物質だけを動物で、短期間実験して、何もなかった、というだけ。
 有吉佐和子が書いてるように、「複合汚染」については、何もわかっていない。いろんな物質が反応したらどうなるかなんてわからないし、何十年も蓄積したらどうなるかも、人間ではわかってない。
 
 がんとか、アレルギーとか、不妊とか、うつとか、現代をとりまくいろんな健康被害は、原因がわかっていない。もちろん様々な原因が総合的に作用してるにせよ、がんは「公害」なんじゃないかと思う。単体で発がん性がある物質があふれているのに、なぜ複合的長期的に摂取してもがんと関係ないなんて言えるだろう。

 有機農業やってる人に聞くと、「うつ」って農薬のせいよ、と言う。
 農薬を使っている農家の人が、ネガティブだったり、自殺者が多いということを、その人は自分の感覚として実感していた。
 一人だけじゃない。何人も見解は一致していた。
 農薬中毒の症状って、精神病の神経障害の症状と同じなんだって。
 パラチオンという有機リン系の農薬があるけど、その生産量のピーク(1961年)は、その使用者の自殺・他殺のピークと一致するのは、私は偶然ではないと思う。

 先日、初めて縮毛矯正をしたら、にきびがばーっと出た。はっとしてしまった。
 美容師さんが言う。カラーリングとかいろんな薬品につかって、手はぼろぼろだと。今の人はみんな髪染めてるけど、何十年後どうなっちゃうんだろって思う、と。

 そんなことを聞いているうちに、私の生活はこの数ヶ月で変化してきた。
 
 私の中で、11月は「有機づける月間」。
 いろんなものを有機づけてみようと思った。
 まず、ご飯。有機野菜をなるべく買ってみる。肉とかも飼料にこだわったもの。
 体洗う石鹸も、リンスも、化粧品も、薬も、ちょっとずつ、化学的に合成されたものじゃないものに変えてみる。
 そういうものが最近は感覚にあう。
 
 今は感覚だから、他の人にはあまりちゃんと説得力をもって説明はできない。
 もっと化学とか勉強しないとな。

 洗脳されてるのかもしれないけど、私の中には確かにあるこわさ。
 化学物質という見えないヤツが、知らないうちに、人の命を脅かしているんじゃないかと。
 がんとか、自殺とか、いろんな手段で。
 放射線被害とすごく似てる。

 現代の水俣病にしちゃいかんよな、という思いで、少しずつ勉強していこうと思うこの頃。

 あー、卒論やばい。

 
 

 

 

 

 

ごみ屋敷

 忙しかったり、心がすさんでいるときって、部屋も荒れる。
 部屋を片付けたら運気があがったっていとこが言ってたけど、心が落ち着いてると部屋もきれいになる。

 最近たまに報道される「ごみ屋敷」って、この時代の心のすさみの象徴だと思う。

 ごみをためることが趣味な偏屈な人、ではなくて、これは社会の歪み。
 ご近所の迷惑な人特集ではなくて、社会問題としてごみ屋敷を特集できるって、NHKさすがだ。

 NHKの「追跡AtoZ」、今日NHKが追跡したのは、ごみ屋敷。
 
 ごみ屋敷の主に、「なぜごみをためるようになったのか?」を問うと、一番にあがってきたのは、「寂しい」。

 夫婦仲がうまくいかなくて、寂しくて買い物症候群になった人。
 兄を亡くし、一人ぼっちの人。
 いろんな孤立した人が語る。
 「家に愛着がない」
 「誰も来ないし、誰も見ない。まあいっかって思う」
 「家にいるのは寝てるときだけ/パソコンゲームばかりしてる」
 「出すのめんどい」

 年代も職業も様々な人が、共通して語る「寂しさ」「孤立」。そして「無気力」。生きる気力のなさ。
 あるおじいさんは、「死ぬのを待ってるんだ」と言った。希望がないと。

 嫌われ松子の晩年の部屋はごみ屋敷だったなぁ。

 気力のなさにつけこむように、ごみがあふれる。大量消費の社会。
 経済ばかりが優先されて、内需拡大/輸出拡大が叫ばれて、とにかく消費ありきで、安さを求め、たくさん物が氾濫し、人の孤独につけこむ。
 
 ごみ屋敷が増えたのはこの10年。
 自由経済の論理が人の絆を断ち切ってきた、その末路。
 壁が崩壊して20年。資本主義の「勝利」の中で、対抗できる論理を、まだ見つけられていない20年目。
 
 「ごみを片付けるだけでは、この問題は片付かへん」
と豊中市の人は語った。
 解決に取り組んでる豊中市の人がしてたのは、ただその人に「向き合うこと」。
 「節度あるおせっかい」が大事なんだと言っていた。

 私が孤独だなとか、一人だなって思っても、これを見てるあなたがそう思っても、それは別にあなたに価値がないわけでもない。あなたに人望がないわけでもない。労働市場において価値ある労働商品にならなきゃ価値がないなんて、そうやって言ってくる時代の方が価値がない。
 あくせく自分に付加価値をつけることができない私の負け惜しみ。

 かといって、個人がそのまま尊重された百姓たちの地域共同体を理想化してみても、そこでのしがらみに目が言ってない私のたわごと。百姓好きだなぁ。expertじゃなくて、生きることのgeneralist.

 こんな思いを発することが、パソコンに向かってできる、私のせめてものおせっかい。
 

 

 

 

 

世代責任

 気づいたら、このブログを始めて1年。筑紫さんの遺志を継ぐのだと思い上がって始めたこのブログ。 論を楽しみ、自由の気風を守ること。
 ブログでは好き勝手書いて、日常ではなんとなく周りとの距離をはかりかねている。筑紫さんへの道はまだまだ程遠いなぁ。

 筑紫さんはよく、「世代責任」を口にする。
 自分たちの世代が、子どもだちにどのような国、どのような日本社会を受け渡すべきかを考え、すごく責任を感じていた。それは、10歳で戦後を迎えた筑紫少年の、大人への批判精神の裏返しとして。
 
 今日その文章を読んで、ふとまた、ずしっと重みを感じた。

 ああ、受け渡されるんだなぁ。この社会を。

 来年から社会人になるということ。大人が作った社会をそのうち受け継ぐ子どもではなくて、社会を作っていく、次の世代に受け継がせるべき未来を作る世代になる、ということ。いろんな問題を作ってきた大人を批判してりゃいい時間は、もう二度と来ない。来年から、受け渡されちゃうんだわ。

 こんなことを書くと、私のゼミの先生に、「何言ってるの。学生も学生という名の社会人です」とぴしゃりと怒られてしまうな。

 人間なんて社会の産物でしかなくて、自分という人間がどう足掻こうが、結局は作られた舞台の上で滑稽に踊るただの道化だ。自分の人生なんて自分で作れるものじゃない。
 時代やら社会やら、家族やら学校やら、組織やらポストやら、いろんなものに規定されて作られる私という人格。そうやって生きてきた私が、社会を受け継ぎ、作っていくのだな。そして、その社会によって、誰かがまた規定されていく。世代責任って、重いね、筑紫さん。

 そんなことを思う、1年目の多事争論。
 

 

 
 

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