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 「知られたくない」というプライバシー意識。
 「話したい」という表現欲求。
 このふたつの欲求が、一人の人間の中に両立している。
 そして、どちらがどれだけ強いか、という個人差は、あまりにも甚だしい。

 どこまで他人に知られても良くて、どこまでがだめなのか。
 その個人差があまりにも大きいこのプライバシーに対する向き合い方に、たぶん私は3年近く悩まされてきたのだと思う。そのことをなんとなく整理できたので書きたいと思う。

  同時代の若者でも、真昼の大学生協で自分のsex life を語る人間もいれば、夜の飲み会の席ですら自分の恋を語れない人間もいる。どこまで自己開示ができるか、これはあまりにも個人差が甚だしい。というより、二極化している感がある。
 自分の私生活で何かあればすぐ村中に知れ渡るという集落があった時代が壊れ、都会の暮らしの中では、共同体は破壊され、他人と自分との距離を自由にとれる時代となった。他人との距離のとり方は、自分ひとりの価値観次第という時代だ。難しい時代。
 だから同時代を生きる若者でも、赤裸々な人間もいればシャイな人間もいる。

 「知られたくない」という欲求を否定する気はまったくない。
 しかしややこしいのは、「知られたくない」人も、「話したい」欲求があることなのだ。

 「知られたくない」という欲求。でも「話したい」という欲求。
 ふたつの相反する欲求の調整として、こそこそっとうわさをし、コミュニティ内に情報格差を生む構造がある。

 ただシャイで、自分のことはできるだけ他人に知られたくない、というだけなら許せる。それなら一人でその事実を大事に秘密にしておけばいい。
 しかしそういう人は、ある特定の人だけには話し、こそこそっと秘密裏にそのうわさが広まり、あるコミュニティの中で知っている人と知らない人ができる、その情報格差が嫌だ。
 特定の人といっても、この人には信頼がおけるから、と特定したわけではなく、なんとなくその場の雰囲気で、ということが多い。○○さんと■■さんだけになら信頼しているから話せる。という特定の仕方なら許せるが、なんとなく知られたくない、という曖昧な情報格差は身勝手だと、私は思う。しかも、「私は知っているけど、これはあまり言えないんだよね」という態度も身勝手だと思う。知っていても言えないちゃんとした事情があるのなら、知らないフリをすればいい。
 私は高校時代、その情報の圏外にいることが多かったから、そう思った。もし自分が情報の圏内にいて、情報の圏外にいる人がそばにいれば、積極的に話したいと心に誓ったのだ。

 ところが大学に入り、あるコミュニティにおいて私は「おしゃべり」「口が軽い」というレッテルを貼られてしまうようになった。ちゃんと断言したいが、私は秘密と約束したことを他人に話したことはない。
 しかし一度ある人からそのレッテルが貼られると、他の人も私には言ってはいけない、という自己防衛を始めるようになった。大学に入ってもまた、情報の圏外に押し出されてしまった。
 コミュニティから排除されたことがあまりにもつらくて、苦しくて、納得できなかった。コミュニティのメンバーを恨んでばかりいた。こんな信頼関係しか築けなかった自分も情けなくてならなかった。

 ただ、しばらく時間をおいて考えてみると、根本的な問題は、プライバシーに対する価値観の違いなのだと思うようになってきた。「知られたくない」欲求が強いコミュニティと、「話したい」欲求が強いコミュニティ。私がそれを見極められていなかったのだ。
 積極的に自己開示をし、他人のことも知りたいと思い、他の人にも知らせたいと思う私は、そのコミュニティとは価値観の違う人間で、プライバシーを大事にする他のメンバーが、自己防衛のために私をコミュニティから排除したのは、仕方のないことだったのかもしれない。別に私を傷つけてやろうなどという悪意なんてなかったのだし。

 何を表現してよくて、何がだめなのか。
 プライバシー意識があまりにも個人差甚だしいものだからこそ、プライバシー権と表現の自由はしばしば対立するのだと、「石に泳ぐ魚」の判例を読みながら考えた。

 また今日も、「この人とはなんでも分かち合いたい」と思っていた人に壁を作られてしまった。でも相手にも悪意などなかっただろうし、それにいちいち傷ついても意味がないのかもしれない。
 「知られたくない」という欲求が、彼が私以上に強かった、それだけのことだもの。

 
 「話したい」欲求の方が強くて、積極的に自己開示をし、他人のことを知りたい、他人にも知らせたい、をポリシーとしている私は、きっと「知られたくない」欲求の方が強い人には危ない人間に見えることだろう。そのことであらぬ誤解を受けたりもした。
 ただ、これが私の考えです、ということはちゃんと述べておきたくて、できることなら理解してもらいたくて、書いてみた。そして、「知られなくない」欲求、こそこそとして情報格差を作るその構造に私が高校でも大学でも何度も傷つき悩んだということも、ちゃんと理解してもらいたいと思った。
 私には直接関係ない人でも、もしかしたら同じことで傷ついたことあるかもしれないし、無意識に傷つけているかもしれないから。

 もし反発があるなら、しっかりと伝えて欲しいのだ。
 奈穂のここがいけないんだよ、ということがあれば、私をちゃんと理解した上で、ちゃんと伝えてほしい。

 なんだかものすごく長くなったけど以上です。
 
  

 
 
 
 
 
 
 



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