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和解と被害者

 「和解」についてのシンポジウムに行ってきた。
 ユダヤ人や第2次世界大戦時にドイツが破壊した町へドイツの若者を派遣して、「ドイツ人なんて嫌いだ」という人と交流して、理解しあうことで和解を目指す、ドイツのNGOの代表シュタファーさんが大学に来て講演してくれた。

 「和解」はあくまでも結果でしかなく、私たちが行うべきは「償い」である。というスタンス。
 「和解」を「する」というのはおこがましいというスタンス。

 ドイツ人若者がポーランドやノルウェーにでかけ、シナゴーグを建設したりいろんなボランティア活動をしていく様子を語ってくれた。

 いろいろ思うことはあったけれど、すごく心にずしっときたことをひとつ書きたい。

 紛争後の平和構築のひとつとして、今「和解」というのはすごく注目されている。私自身、戦争時に本当の加害者はなく、被害者もまた加害者であり、加害者もまた被害者であり、しかもそれが同じコミュニティの中の大量の人間がどちらでもあり、その時代を考えるならば、特定の人間を裁いて処刑して終わる、という裁判の方法は好きではなかった。南アフリカの「真実和解委員会」のように、裁くことを目的とはせずに和解を目的としたほうが、その後の社会は、対立していた集団同士が協調して生活していけるし、望ましいと考えていた。

 しかしある人が指摘した点。
 和解が被害者を傷つけることもある、ということ。

 それを聞いたときに思い浮かんだ情景があった。

 ある演劇のワンシーン。
 戦争直後、夫婦となった日本人妻と米兵の夫。中むつまじく、戦争なんて水に流そうと言っていた。それを聞いて、広島出身の若者はがーんと米兵を殴った。そして言う。
 「私の母と妹は原爆で死んだんじゃ。水になんか流せんのです!!」

 そういうことなのだと思った。
 和解だ和解だ、と外部の人間がさかんに叫び、その雰囲気を醸成しようとするほど、加害者を許せない被害者はひどく苦しむものなのだと。家族を殺された被害者の苦しみは一生続くものなのだからと。
 相手を赦すことで楽になれる、という被害者もいれば、一生赦せない、という被害者もいる。
 いろんな人がいる。
 ただ「赦し」というのは被害者の心の問題であり、制度では助けることができても赦しを強要することなど絶対にできない。一度おきてしまった殺戮の傷は、他人にはもはやどうしようもないのだ。

 一筋縄では決していかない。
 でもだからこそ、「和解」の難しさ、紛争後の社会の真の意味での復興の難しさを知ることが、最初から紛争などなければどんなによかったことか、と次なる紛争の抑止につながるのではないだろうか。

 あの戦争は間違っていた。と償うこと。
 被害者意識を持つことはあまりにも簡単なのに、加害者意識を持つことは難しい。
 日本人にはどちらの側面もある。
 ただ、日本が傷つけた国の人に対しては、「ごめんなさい。赦してください。」という償いの気持ちを持つことが必要なのではないか。そうでなければ「和解」など生まれない。
 中国・韓国との仲は、2001年に比べれば改善されてきてはいる。
 それがなんとなく、の改善ではなく、本当の意味での和解を目指す必要があると思う。そしてその和解があまりにも難しいということを実感したら、それはもう戦争など繰り返すまいという気持ちを生むはずだ。それが戦争を生まない力にきっとつながる。
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